「叱る」と「怒る」と「ほめる」 [人材育成]
posoです。
私は人を褒めることがすごい苦手でした。現在形で苦手だと思います。
昨年、ベテランスタッフから「posoは連絡事項とダメなことを伝えるだけで、子どもたちを誉めないよね。」とフィードバックをもらってから結構気をつけるようにしてきました。
https://www.facebook.com/takuyakondo.poso/posts/857881854227479
最近感じているのは、特に子どもの場合は、関係性をつくる前に何を指摘しても結局は心に響かない。ということ。
だから「posoが言うから聞こう!」という関係性になるまでは、 多少のことには目をつぶっています。関係性ができる前だとなかなか聞いてもらえなくても、関係性が出来ると小さな声で1回言うだけで伝えることが出来ます。
チームビルディングジャパンのコラムの中で、
「・・・自分の常識に相手を従わせようとするために、自分のエゴで相手をコントロールするために叱るということは自己満足以外にあまり良いところが無いのでやめてしまって大丈夫でしょう。」
とありました。では、何を基準に「叱る」という行為をするのでしょうか?
同じくコラムで 「 自分たちが属する社会、コミュニティのルール、倫理的規範などに関して問題が生じた時にはもう一度同じことを起こさないために・・・「叱る」ということでそれが危険なことである事を教えようとします」(第77回『褒めることと叱ること』)
とあります。コミュニティーのルールや倫理的規範が基準なのでしょうか?本当に?
自分の常識は他人の非常識ということがあるように、すでにそのコミュニティーにいる人たちの間でもルールの解釈が異なることがあります。
結局は、ルールや規範を叱り手のめがねを通している、自身の常識や経験・エゴに基づいて基準になっていると思う。
怒るはは自分の感情、叱るとほめるは自分の意向を伝え従わせる方法。意識をしていないと自分のエゴになってしまう。
高校生・大学生は大人?子供? と考える余裕は持ちたい。
組織の伝統が人をつなぐ [人材育成]
posoです。
この1年ほど、私が学生時代からお世話になっている組織の活性化のお手伝いをしています。
高校のOBOGが中心となって高校生と大学生を毎年20人~30人ほど英国やドイツ・台湾に派遣し、国際交流を推進している団体で、国際交流事業は、私が派遣された時で15年目、すでに22年目の歴史があります。
ただ、
学生時代は、帰国後も各国からの受入を手伝うために、しばしば団体に顔を出していたのですが、社会人になると糸が切れた凧のように、みんなバラバラになってしまっていました。
そこで、
改めて社会人を含めてネットワークを構築をして、学生も社会人自身もステップアップし、さらに国際交流事業をブラッシュアップさせよう! というようなことをはじめています。
私自身は、久々に団体に戻ってみて、こんなに変わっちゃってるんだーと思うネガティブな変化とすごーい!!こんなに進んでるーというポジティブな変化と 当然ですがいろいろな変化を楽しんでいます。
でも最近、強く思うのは、どこか変わらないベースはあり、それが 縦・横の繋がりを構築する促進剤の役割を果たしている。
共通共通体験、共通言語として 共有できている安心感があるんですよね。
「俺たちの頃は、○○だった。」「私たちの時は…。」「今はですね~。」
10才ぐらい上の先輩から・一回り以上も年下の後輩たちとそんな話ができているのは、変化しない伝統があるからだとちょっと感動しています。